娘を見てイライラしてしまう自分

昨日は、娘と、ネコカフェに6時間も!行ってきた。娘は知的な障がいをもっている。30歳だけれども、振る舞いは小学校1年生だ。ネコカフェで、30歳の体の大きい娘がネコと戯れる姿を見ると、ナンカ、親として複雑な気分になる。4歳、5歳の子がネコと遊ぶ姿は「かわいい」と感じると思うが、30歳の娘の姿を見ると「かわいい」とは、ナカナカ、感じない。

 

実は、障がいをもつ娘を見て、「イライラ感」「人に見られて恥ずかしい感情」「密かな怒り」を感じてしまっている。娘に対して、冷たい親だと罪悪感や自己嫌悪感も感じていた。

 

今日は、娘が、早朝から、ハイテンションの笑顔で「お父さん、ゴールデンボンバーのダンス、わたしが踊るから、見る?」と言ってきた。自分としては、昨日の「疲労」から、自室に引きこもっていたい気分だった。

 

上記の反応は、ゲシュタルトで言う「接触境界の機能不全」なのかもしれない。「人生は自立すべきだ。知的であるべきだ」の「鵜呑み(イントロジェクション)」や、長女の「甘える姿」に反応する「投影(プロジェクション)」が働いているのかもしれない。原因は分からないけれど、自然体の反応ではないので、何かしらの無意識的な「心理的現象」が働いているに違いない。

 

人生は、分からないことだらけだ。そして、一番分からないのは、自分自身のことなのかもしれない。

 

ちなみに、ゲシュタルト療法でいう「接触境界の機能不全」は5つあるそうだ。

 

①鵜呑み(イントロジェクション  Introjection)

②投影(プロジェクション  Projection )

③反転(レトロジェクション  Retroflection )

④逸脱(ディフレクション Deflection )

⑤無境界(コンフルエンス Confluence )

 

パールズの分類は①〜④で、⑤は後にポルスター夫妻が付け加えたと『実践的、需要的なゲシュタルトセラピー』岡田法悦(ノリエツを読む)著に書いてあった。

ゲシュタルトの「夢のワーク」体験

ゲシュタルトの「夢のワーク」を初めて体験した。

 

ゲシュタルトのワークには、悲しみや怒りの「感情表出」があるものと思っていた。しかし、今回の「夢のワーク」では、そうではなかった。ワークを終えての感想は、「ナニカ、スッキリした」「バラバラだったものが、あるべきところに落ち着いた」という感じだった。

 

その感想から、「ゲシュタルトのワークは感情表出があるべき」とか「ワークはこうあるべき」とかの「思い込み」があることに、まず、気づいた。おそらく、ゲシュタルトのワークに「決まりきった形」などないのだ。

 

だとすると、これから、どんなワークに出会うか?楽しみだ。

 

夢のワークでは、仕事場の「店長」「社長」「父親」が登場した。三者に対して問題を抱えていたが、ワークを終えた時は、三者に親和感を感じていた。店長、社長、父親に支えられ、助けられ、理解されていた。三者と共に、同じ人生上の問題を背負っているように感じた。

 

人生は、みんなで背負うから、面白い。

 

ゲシュタルトのワークは、芸術作品みたいなものだと思う。一つひとつが違っていて、ユニークで、創造的であるから、面白い。その都度、初めて出会うから、喜びなのだ。

 

また、ゲシュタルト療法の入り口は三つあると聞いた。

①問題点、悩み、解決したいこと。

②「今ここ」の感情。

③夢

今回は、三番目の「夢」を体験したことになる。

 

 

テレーズ自叙伝で理解できないこと

「山手十番館」は、約30年前、奥さんの両親を招待して、結婚の報告(お願い)をしたお店です。

それ以後、度々、訪れていました。

「記憶」って「場所」に結びついているのですね。

帰天したお義父の「ペヤングカップ焼きそば」みたいな四角い顔を思い出して、二人して笑って(思い出して)いました。

 


わたしたちは、帰天した親に対して「幸せに生きる」、もしくは「奥さんを幸せにする」義務を負っている思いました。

神の国の親は「幸せを願っているに、決まっているから」です。


上記の感想は、『テレーズ』の影響を受けているかもしれません。

『テレーズ』は、「帰天した人」や「乳幼児で亡くなった兄弟姉妹」に、

あまりにも身近に、まるで生活感覚みたいに感じています。


今、読んでいる『テレーズ』は、「犠牲」や「苦しみ」を強調し過ぎているような印象を持ちました。


さらに、テレーズは、この世を「島流しの地」「儚い一時」と言い、天国を「本国」「本当の人生」と言います。

これも、この世を軽視する理由、逃避する理由になってしまいそうで、イマイチ理解できません。

「この世」に、もう少し色彩をつけて欲しいです。(あくまでも、誤読かもしれません)。


『テレーズ』は、「天国」を基準にして考えていて、これは、「この世」をひっくり返したような見方をしています。

 


教皇フランシスコの回勅『兄弟の皆さん』も読んでいます。これは、教皇独特のメッセージ性が出ていて興味深いです。カリスマ性の理由かもしれません。教皇は、サマリア人の喩えを引いて、「隣人は誰か?と隣人を探すのではなく、あなたが隣人になってください。教会は外に出向くべきです」と訴えます。

「終戦の日」にカール・バルトと小林秀雄。

2023年8月15日終戦の日

産経新聞、文芸評論家 新保祐司氏の「正論」より

 

小林秀雄「講演  文学と自分」昭和15年の夏

 

「戦が始まった以上、何時銃を取らねばならぬか分からぬ。その時が来たら自分は喜んで祖国のために銃を取るだろう。而も(しかも)、文学はあくまでも平和の仕事ならば、文学者として銃を取るとは無意味なことである。戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃を取る時が来たら、さっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭な物の道理である。」

 

カール・バルト が1940年4月、54歳の時、自ら志願して予備役防衛軍兵士として軍務についた。当時はバーゼル大学教授であった。

 

「おそらく、それほど有能で、敵に脅威を与えるほどの兵士ではなかったと思われるが、ともかく武装して訓練を受けた兵士であった。彼自身の希望で単なる事務職の軍人にはならず(彼の上官は、配慮して事務職につく命令を出そうとしたが)、5月には銃砲射撃訓練を受け、さらにその他の多くの軍事技能訓練を受けた。暗い深夜のライン川や、バーゼル貯水池防備の歩哨に立ち、そして非番の時は麦わらの上で睡眠をとった」

 

以前、バルトの伝記を読んだ時、この「一兵卒」として志願したという事実に感銘を受けた。そして、それが書かれている項に、軍服を着て鉄兜をかぶり銃剣をつけた銃を握りしまたバルトが歩哨に立っている写真を見たとき、バルトの神学の深さがどこから来ているのかが分かった気がした。この度の眼鏡をかけた初老の男は「おそらく、それほど有能で、敵に脅威を与えるほどの兵士ではなかった」に違いないが、精神においては強靭なる「一兵卒」だったのだ。

 

小林秀雄カール・バルトは「時至れば、喜んで一兵卒に志願する」覚悟ができていた。

 

 

 

テレーズ自叙伝 3読できた不思議

『テレーズ自叙伝』を2023年4月から読み出して、3読目を終えました。
学生時代は、1ページも読み通せないほど、退屈な文章に感じたのですが、
今、読めていることが不思議です。

今度は『テレーズ手紙』を読み出しています。
テレーズの文章は、自分の生活実感から、遠く離れていますが、
読み進めることができるのが、不思議です。

これは、何かの「しるし」かもしれません。

神様は、何を、わたしたちに伝えようとしているのでしょう?

テレーズ手紙-2

テレーズにとって、この世は「島流の地」なのだ。

「涙の谷」とも言っている。

この世は仮の世で、瞬く間に過ぎ去ってしまう。

テレーズには、天国こそリアル、本国なのだ。

死んだ後に本当の生が始まる。

 

 

死んだ後に、本当の人生が始まるなんて、信じることができるのか?

この世は陽炎で、天国こそリアル、実在と信じることができるのか?

証拠もなしに。

 

 

ペテロは逆さ十字架で処刑された。

これには、次の逸話がるそうだ。

逆さ十字架で世界は反転する。

ペトロに見える世界こそ正しく、

この世こそ間違っているのだ。