テレーズ自叙伝で理解できないこと

「山手十番館」は、約30年前、奥さんの両親を招待して、結婚の報告(お願い)をしたお店です。

それ以後、度々、訪れていました。

「記憶」って「場所」に結びついているのですね。

帰天したお義父の「ペヤングカップ焼きそば」みたいな四角い顔を思い出して、二人して笑って(思い出して)いました。

 


わたしたちは、帰天した親に対して「幸せに生きる」、もしくは「奥さんを幸せにする」義務を負っている思いました。

神の国の親は「幸せを願っているに、決まっているから」です。


上記の感想は、『テレーズ』の影響を受けているかもしれません。

『テレーズ』は、「帰天した人」や「乳幼児で亡くなった兄弟姉妹」に、

あまりにも身近に、まるで生活感覚みたいに感じています。


今、読んでいる『テレーズ』は、「犠牲」や「苦しみ」を強調し過ぎているような印象を持ちました。


さらに、テレーズは、この世を「島流しの地」「儚い一時」と言い、天国を「本国」「本当の人生」と言います。

これも、この世を軽視する理由、逃避する理由になってしまいそうで、イマイチ理解できません。

「この世」に、もう少し色彩をつけて欲しいです。(あくまでも、誤読かもしれません)。


『テレーズ』は、「天国」を基準にして考えていて、これは、「この世」をひっくり返したような見方をしています。

 


教皇フランシスコの回勅『兄弟の皆さん』も読んでいます。これは、教皇独特のメッセージ性が出ていて興味深いです。カリスマ性の理由かもしれません。教皇は、サマリア人の喩えを引いて、「隣人は誰か?と隣人を探すのではなく、あなたが隣人になってください。教会は外に出向くべきです」と訴えます。