テレーズ自叙伝-8

『テレーズ自叙伝』を3回読了しました。

今は『テレーズ手紙』を読み出しています。


①『テレーズ自叙伝』は、学生時代は、1ページも読めないほど、退屈な文章に感じました。

でも、今は、結構、読めているので不思議です。


②『テレーズ自叙伝』を「誤読」しているのかもしれないです。


②テレーズの4歳半の時の回想を読むと、「これって、黙想、念祷だよね」と思わせる場面がいくつかあり、驚きました。


③4歳半のテレーズの自然観が、聖フランシスコ「姉妹なる大地よ」の「太陽の讃歌」を連想させる場面もあり、再度、驚きました。


④テレーズは「天国に行く」ことに憧れています。「死んで天国に行く」という意味です。

自分は、「天国に行きたい」との黙想も、祈りも、一度もしたことがありません。


⑤テレーズは「愛することは苦しむこと」「苦しむことが喜び」と言います。これが分かりません。

自分は「苦しみ」を求める祈りをしたことがありません。


⑥テレーズは「人々から忘れられること」を願っています。

これは、カルメル会の「会憲」でもあるようです。

自分は、どちらかと言うと、人々から覚えられたいです。


⑥姉妹宛の『手紙』には、内容に「愚痴」や「悪口」があってもよさそうだけど、今のところ発見できていないので驚きです。


⑦テレーズの信仰の手記を読むのは、未踏の大陸の探検記を読むに等しい感じです。


⑧「テレーズが苦しみを願う」で、次のように、やっと考えつきました。

「この苦しみを受けるので、病気の子どもの命を救ってください」

「この喜びを放棄するので、戦地にいる夫をお守りください」

「戦地からの無事に帰国を願って、お百度参り(苦行)をする」

上記と類似性があると思いました。


⑨「苦しみを受ける」ことと、「戦地の夫の安全」とは、物理的にまったく関係がないように思えます。

でも、夫の帰国を待つ婦人にとっては「そうせざるを得ない」のでしょう。


⑩そもそも、イエスの十字架の救い(贖罪)も、同様な構造です。

これを理解しないのは、もしかして、根本のところで、キリスト教を理解していないのかもしれない。


①テレーズにとって、「天国」も「贖罪」も、毎日、太陽が東から登るように、リアルなのでしょう。

 

テレーズ手紙-1

『テレーズの手紙』を読み出しました。

 

手紙147  1894年

 

他人のことを笑っていたら、いつか自分たちが笑われることになるでしょう。

つかの間に過ぎない、この世のいのちが終わったとき、

わたしたちと、あのかたたちのどちらが恵まれた者であったか、お分かりになるでしょう。

 

もう肉体を離れてしまったお父さまは、司教や神父様に会われることは、なんでもないことです。

 

愛する小さなお姉さま(セリーヌ)、カルメル会にいらしても、感覚的には何も魅力をお感じにならないと伺って、

喜んでいます。

 

祈り:「感覚的な魅力を感じない」とは、どういうことだろう?

 

世間には、わたしたちが、「変人」と映っても当然です。

人間は自分をもとにして、他人を判断するものです。

ですから、まったく愚かな世間が、わたしたちを愚か者と考えるのは、もっともなことです。

ところで、奇妙な変人と言われたのは、わたしたちが初めてではありません。

エス様こそ、罪人を探し求める「変な人」です。

 

世間こそ欲張りで、人々の霊魂を騙しては、「水のない泉」へと連れて行くのです。

 

マルコ福音書14章の「高価な香油の入った壺を割って、イエスの頭に注いだ」話にもあるように、

 

キリスト信者や司祭たちでさえ、わたしたちが、わたしたちという生命の器を割って、

エス様に香油を注ぐのを咎められるのです。

わたしたちの器が砕けようと、イエス様がお慰められになれば、それでよいではありませんか?

それに、世間も、いやでもそこから発する香りを嗅がなくてはなりません。

この香りこそ、世間が絶えず呼吸をしている、有毒な空気を一新して、清めるのに役に立つのです。

 

 

 

 

テレーズ自叙伝-7

テレーズ :確かに、わたしたち姉妹(セリーヌとテレーズ)は愛し合っていました。けれどもその愛情はまったく純粋で(神的で)強かったので、別離のことを思っても心がかき乱されるようなことはありませんでいた。

 

祈り

「人間的な愛情による結びつき」に対して、「神的な結びつき」「霊的な結びつき」がるようだ。テレーズは、しばしば、修道院内の生活でも、人間の感情を越えた、神的な愛による結びつきを語っている。「神的な愛」は、別離を超越したものらしい。

テレーズ自叙伝-6

ヨハネ福音書4章「わたしに水を飲ませてください」

 

テレーズ ; 全世界の創造主である方が、ご自分が創られた被造物に、一杯の水を求められました。

 

祈り

今日、主に、わたしが、一杯の水を差し出すことが出来ますように。

わたしにとって「今日の一杯の水」は何に当たるでしょう?

今日のありふれた小さな出来事の中にあるのでしょう。

主よ、心を開くことができますように。

わたしはケチで自己防衛家なので、オープンマインドは難しいでのです。

 

 

 

テレーズ自叙伝-5

『聖テレーズ自叙伝』を読んでいます。


『テレーズ自叙伝』は、ある程度、理解できるのですが、とても着いて行けません。


『テレーズ自叙伝』は、同じキリスト者として、ある程度、共感できるのですが、

とても、実践したくなるシロモノではありません。


①テレーズは「殉教」の望んでいます。

要するに「早く死ぬこと」を願っています。そんなこと、自分は祈ったことがありません。


②テレーズは、「労苦の実りを見ることもなく、誰にも知られることもなく、忘れ去られること」を望んでいます。

これは、カルメル会の精神のようです。

だとすると、今、目の前にいる、司祭やシスターも、そう思っているのでしょうか?

自分は「誰からも忘れられる」ことを祈ったことがありません。


③テレーズは「愛するために苦しむこと」を願っています。

「愛するために苦しむ」については、この種のテーマの本を読んでこなかったような気がします。

コミュニオンのシスター鈴木秀子は、「苦しみ」を求める言説は、誤解されるでの、していません。


④「愛するために苦しむこと」

↑エリック・フロムの『愛するということ』では、後半の章で、「愛するための、実践の要件」を書いています。

でも、「忍耐」はあったけど、「苦しむ」はなかったような気がします。


カトリック特有の「言い回し」なのかもしれません。


⑥そもそも、よく考えると、「従順、清貧、貞潔」も、着いて行ける「シロモノ」でないことが、分かってきました。


⑦やっぱり、一番分からないのは、自分自身です。

『テレーズ自叙伝』は、探検小説みたいに、「未到の大地」を見せてくれますが、小説と違って「探検してみたい」という気は起こりません。

要するに『テレーズ自叙伝』は、共感できるんだけれど、共感できない読書ということで、今、稀有の体験をしています。


⑧でも、テレーズは、教会のお墨附を得ているので、自分は、信仰をまったく理解していないのかもしれません。

または、『テレーズ自叙伝』を、自分がまったく誤読している可能性もあります。

 

テレーズ自叙伝-4

ルカ福音書5章

「主よ、わたしは夜通し働いて、何一つ取れなかったかったのです」

 

テレーズ ; 主は、ご自分から網を投げ、魚でいっぱいにして引き上げてくださいました。今日も、そうでありますように。

 

祈り

一晩中、漁をして魚が一匹も獲れなかった。

何をやっても実りがなかったことはあります。

テレーズは、「イエスが」、わたしたちに代わって、網を投げくださり、魚を一杯に獲ってくださる、と言っています。

エスが代わりにやってくださる。

信じたいと思います。

 

 

 

テレーズ自叙伝-3

「イエスは山に登られると、これと思う人を人々を呼び集められると、彼らはそばに集まってきた。」マルコ福音書3章

 

テレーズ:主は、召命に相応しい人々を招くのではなく、お望みの人々を呼び寄せられます。

 

黙想

エスは、信仰に秀でた特別な人々を招くのではなく、近くの人々を呼び集められます。

ということは、神には時間的にも空間的にも制限はないので、わたしたちも、今、ここで、主に呼び集められる訳です。

もしかして、「新しい使徒」の一人とされることも、あり得ます。

もちろん、「十二使徒」とは、時代が違うので、違う意味でしょう。

でも、わたしたちが、今、ここで、イエスに招かれていることは、確実です。